雷が鳴った日——娘は学校へ行くのをやめた

ADHD娘の子育て

夏まつりの夜に号泣した娘は、それでも2学期が始まると学校へ向かいました。

夏休み初めの、数日間の部活以外、あの2人と顔を合わせることはありませんでした。新学期、部活も登下校も同じだった2人との、ぎこちない日々がまた始まりました。

その後3人の間でどんなことがあったのか、私にはとても聞けませんでした。聞いてしまったら、もっと辛くなる気がして。娘の話から察するに、話しかけても会話がほとんど続かなかったり、急いで歩いて置いていかれたりということが続いていたようでした。

それでも娘は、学校へ行っていました。

頭が痛いは仮病?

小学校の中学年の頃から、娘は頭が痛いと言っては学校を休みたがることが多くありました。私が偏頭痛持ちなので遺伝したのだろうとは思っていましたが、それにしても頻度が高かった。

処方された頭痛薬を、不調のときは毎日のように服用していました。

主治医に相談すると
「頭痛薬を頻繁に飲むことでかえって頭痛が誘発されることがある。でも起き始めに飲まないと、痛みが確立されてしまったら薬が効かなくなるから……困ったね」と。

薬を服用するタイミングが大事ということは私も経験上よくわかります。

痛みが小さいうちに飲むとスッと治ることが多いのに、飲むタイミングを逃したり、我慢しているうちに増大してしまうことがあります。そうなってしまうと後から飲んでも全く効かない。丸一日まともに動けなくなることも。

娘の辛さがわかる分、頭痛を訴えられると欠席を許していました。てんかんもあったので何か関係があるのかもしれないという思いもあり、無理をさせることはできませんでした。

それにしても休みが多い。
当時の私は、どこまで本当の頭痛なのか疑う気持ちもあり、正直イライラしていました。

2学期が始まってからも、休みたがる日はありました。それでもなんとか登校していた、9月下旬のことです。

学校からの電話

2学期初めに復習テストがあった、その数日後のことでした。
娘が学校から帰宅後少しして、学校から電話がかかってきました。

「今、◯◯(娘)さんはお家へ戻られていますか?」

「はい、少し前に帰宅したところです」

「…そうですか。今からお宅へお伺いしてもよろしいでしょうか。担任と学年主任とで伺います」

なぜわざわざ学年主任の先生まで来るのか、全くわからないまま待っていると、先生たちはすぐに来ました。ちょうど夕立の気配がして、空がみるみる暗くなっていくところでした。

玄関に通すと、今日テストの返却日だったと言って先生からテストを手渡されました。
なぜわざわざ先生がテストを、自宅まで来て親に渡すんだろう。
何か問題でもあったのか。娘のテストに何があったのか?!

先生「〇〇さんはどうされていますか?体調はどうですか?今会えますか?」

私「体調?あぁ…普通?…ですね。さっき帰ってきたので、今部屋にいますが……呼びますか?」

先生「帰ってきた…どこか出かけていたんですか?」

私「…いや?」

先生「欠席するときは学校に電話連絡をして頂きたいのですが、お電話いただいてましたでしょうか?本人からも電話をもらっていなくて」

私「……いえ?…学校に…学校からさっき帰ってきましたけど?」

先生「今日、娘さんは学校をお休みされています。無断欠席でしたので、伺いました」

 

その瞬間、まるで安っぽいドラマの演出のように、大きな雷が鳴りました。

真っ白になった頭の中で

『うわ…このタイミングで雷…ドラマみたい』

と、心の中でどこかおかしく思っている自分がいました。

娘、立てこもる

先生に謝罪し、帰っていただいた後、私は2階の娘の部屋へ向かいました。娘は部屋にいません。
ふとトイレのドアノブを回すと鍵が掛かっていました。娘はトイレに鍵をかけて、立てこもっていたのです。

「先生から聞いたよ。どこにいたの?」

返事はなく、泣き声だけが聞こえました。

「怒らないから。一日中どこにいたの?」

そう言いながら私はすでに泣き始めていました。

娘は出てきてくれませんでしたが、泣きながらドア越しに少しずつ話してくれました。
最近仲良くなったCちゃんという子がいる。その子も学校へ行きたくないと言って休みがちな子で、Cちゃんの家は日中誰もいないからうちにいてもいいと言ってくれた。今日は2人でそこにいた、と。

良かった。それならそれでいい、と思いました。
制服姿でウロウロしていたのでもなく。どこか遠くへ行ってしまったわけじゃない。
安全な場所にいて、ちゃんと家に帰ってきてくれた。

怒りは感じませんでした。ただ安堵しました。

「そう、それならよかった」

そして

「もう学校へは行きたくない」と言った娘に私は

「うん。わかった。もう学校へは行かなくていいよ」

心からそう言っていました。

最初から理解があったわけじゃない

もちろん初めから理解があったわけではありません。

頭が痛い、お腹が痛いと言っては休みたがる娘に、ずっと困っていました。なるべく休まずに行ってほしくて、露骨に嫌な顔をしたこともあります。友人関係のことでさえ、心のどこかで乗り越えてほしいと思っていました。

後に婦人科系の疾患が見つかったことを思えば、あの頃のお腹の痛みも本物だったのかもしれない。それでも当時の私には、「また休むのか」という気持ちの方が強くありました。

でもあの雷の日。ようやく分かりました。夏まつりのこと、友人関係のこと、色々なことが重なって、娘はもう限界なのだと。そしてそばで見ていた私も、限界だったのだと。

理屈ではなく、痛いほど分かった。だから「もう学校へは行かなくていいよ」と本心から言っていました。
私自身も解放されたかったのだと思います。

知らなかった教室でのこと

娘が学校へ行かなくなってすぐ、必要書類の受取りや、娘の様子を伝えるために私だけが学校に呼び出されました。

その時、教室の黒板の横に夏休みの課題の未提出者として、娘の名前が張り出されているのを見ました。担任の先生は名前を黒板に貼り出すという方法をとっていたのです。

当時はまだ、娘に特性があると正式に診断されたわけではありませんでした。だから「なぜそんな方法を」と強く思えなかった部分もあります。ただ、名前を貼り出されると分かっていてもなお課題を出さない娘が、クラスのみんなの目にどう映っていたか。だらしない子、怠惰な子——そう思われていたとしたら、友達関係に影響しなかったはずがない、と今は思います。

こういった指導が子どもに与える影響については、また別の記事で書こうと思っています。

後になって、二次障害という言葉を知りました。特性が理解されないまま、できないことを晒され続けると、心が傷ついていく。あの頃のことがそれだったんだと気づいたのは、ずっと後のことでした。

「もう学校へは行かなくていいよ」と言ったあの日から、娘が学校へ戻ることはありませんでした。

 

タイトルとURLをコピーしました